物事をあとから正当化させるのって言い訳にも聞こえる。
過去を振り返ってモノゴトの起こったことの理由を探しても、後付でしかない。
その解釈で自分がどう感じたい?
誰の目線からモノを言ってるの?
事実は一つの事実でしかないけど解釈は人の数以上にある。人の中にも迷いがある。
わたしはイタリアに来たこと事実しか受け取れないし、なんだかもうその解釈をするのに疲れてしまった。
別に考えなくともいいのだろうか。
考えたら逆に感度が削られる気がしてならないのだ。
考えて。理論をしっかり立てる。
そうでないと行動できないし、なんにでも意味がないと生きる意味がないって何度も自分や他人に問いながら生きてきた。
でも、
感じて出した行動のほうがしっくり来ている。気がする。
ぼーっと振り返っていたら気づく。
感覚を開いていくだけでいいのか、って。
ちょと呆然としていて、今までと仕様があまりにも違うので戸惑っているのだけれど。
それも楽しんでいます。
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