音楽とダンス。ダンサーは音楽をどう捉えて踊っているのか。目指すところ。

夜景

音楽とダンスについての話。
私がダンサーとして、音楽をどう捉えて踊っているのかを話していきます。


私がダンスに関わるとき、

「ダンサー」として。基本的に振付家が表現したいことをアウトプットするのが仕事です。上田舞香というダンサーあるいは人間、がもつ興味と探求心を根底に、振付家・作品・作品を構成する要素全てに向かい合い、持つものすべての情報を引っ張り出してきて、作品が求めるもの、作品の可能性を探します。

「振付家」として。スタート地点は様々で、作品の種となるところから拡散と集中を繰り返してその時々にあらわれる一つの形を提示します。

例えばこの二つの関わり方があります。

わたしはまだダンサーでいたい。
というよりは、振付家なんて大げさなところには到底行けっこなさそうです。それはどうでもいいのですが。

私がダンサーとして作品に関わるとき、音楽とどう向き合っているのか。音をどう捉えてダンスにつなげているのか。そんなところを分析してみたいです。わたしが目指す形を言語化してみます。


音楽とダンスの関係で、私が目指すことはコラボレーションをすること。
そのために重要だと思うのは第一に音を「受け入れる」こと。次に「自分の軸」を持つこと。

私が重要だと思うこの2つをまとめると、「互いが独立していても成り立つのだけれど、2つが合わさることで新しいものがみえてくる」ことを目指したい、ということ。

究極的には音楽そのものになる、一体化する。こういう言葉で語ると安いものに聞こえてくるが、本当にやりたいことはこれだと感じています。わたしたちが思っているほど身体が持つ可能性は大きい。まだ目覚めいてない感覚は数えきれないほどある。

生音でも録音されたものでも、どんな場合にしても、ダンサーは音楽を聞く、受け取る、受け入れることが大事だと思っていて。身体の中で巡るグルーブと音楽が持つグルーブを一致させる、すり合わせるような作業を基本的にはしています。

いくら身体がきいて動けるダンサーだとしても、音楽をないがしろにしていたらあまり魅力的に映りません。聞いているように見えて表面上の音しか聞こえていないダンサーはたくさんいます。「聞く」のレベルが、深さが、基準が、前提が異なります。音を聞いていない人は魅力的に映らないか、見ていて心地悪いか、目の前にいたとしても興味の対象外となります。なぜなら、ダンサーだけのエゴで踊ることになるから。音を聞いていない、聞こうとしていないことは、感覚を自らシャットダウンするという意味です。五感が開けていない踊りというのは、本来見えないものを見せる特質を持つダンスというものの可能性が狭まることと同等。


まだまだわたしは周りの音が聞こえていません。独りよがりになりがち。つまり、欲がある。一人の人間でダンサーってそんな小さな枠組みの中ではなくて、大きな枠組みとしてヒトの心身やダンス・踊りという人類が積み上げてきた可能性に身をゆだねる。そういうときの踊りは、本当のところを見てる人にはわかる。自分の踊りたいように、自分が踊っているときではなくて、自分の意識が少し外にいて音を聞いていたり、欲がなく移りゆく音や時間を達観しているような感覚に陥るときは、不思議と余計な力も抜けていて、見ている人からの反応もよかったりします。

我々ダンサーが目指すところは、例えば音になること。音は空気中の振動が人間の鼓膜を振動させて聞こえてくるもの。空気中に音の粒が飛び散っている、とも捉えられます。その音の可視化をしたいわけです。或いは発展されて違う音が聞こえるとか見えるとか、幻覚を覚えさせるような体験ができたらこの上ない。違う人生を生きているのだけれど、確実にお互いが意識の中にいて、タイミングが合うとコラボレーションが生まれている。これが、いわゆるハマった瞬間。少なくとも私はこういうことを考えて、理想として目指しています。

その中ではずしが重要で。裏切りです。
音楽とダンスがすべて正確にハマっていかずに。
はずせるというのも、音楽を聞いて、受け止めて、意識の中にいなければ成り立ちません。ただダンサーが勝手に踊っていてただ単にずれているということになってきます。

人は、一人では生きてゆけず、誰か、何かがあることでやっと形を保っています。関係性の中で生きています。その感覚を改めて提示していきたい。忘れそうなことを思い出せるきっかけにダンスがなればいいと思う。具体的でなくとも。ダンスは役には立たないけれど、人生を変える器量を持っていると信じています。

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